ホーム » ドイツBMWと勇
- 秩父宮雍仁親王(1902~1953)。大正天皇と貞明皇后の第二皇子としてご誕生されました。1928年に松平勢津子様とご成婚。社会活動としてスポーツの振興に尽くされました。
- Prince and Princess Chichibu Wedding
秩父商会福岡支店時代
大阪から帰福した藤壺勇は、昭和3年にオートバイ販売会社の秩父商会の福岡支店に勤めていました。
この会社は東京に本社があり、もとはイリス商会という名前でしたが秩父宮殿下にBMWオートバイを献上したことを記念して秩父商会という名をゆるされた名門で、BMW、ボッシュなどドイツ製品の代理店でしたが、福岡支店ではフォードなど自動車も販売していました。
秩父商会にはBMWの新車5台分がドイツから分解箱詰めで博多港に送られ、勇はそれを1日で組み上げていました。他の社員はオートバイを組むことができず、会社にとって大変貴重な存在でした。
また、持込のオートバイ修理も担当し、家業を手伝っているときから木炭ガスエンジン、ガソリンエンジンの分解整備、サイカホールの選手時代にインディアン750の整備など携わっていましたので、最新のBMWや、古いオートバイなどを簡単に整備、オーバーホールすることができました。
BMWのオートバイを手掛けているうちに、エンジンのバルブまわりから異音がよく出るのに気がついたのもこうした技術や経験を身に付けていたからです。バルブ周りの異音の原因はカム駆動ギアにバックラッシュが出やすいBMWの構造上の問題で、勇が見つけた問題点は直ちに東京本社に報告され、さらにドイツのBMW本社にも伝えられ、対策が加えられました。
- BMWのオートバイ製造工場(バイエルン州)
ワイマール共和国とナチズム
藤壺勇が渡欧した1930年代は、ナチス・ドイツがドイツ国内やヨーロッパ諸国において台頭しつつある時代でした。
ヨーロッパを大きく揺るがせた第一次世界大戦(1914~1918年)は、カイザー・ヴィルヘルム2世の帝政ドイツの敗北(ドイツ革命)によって終結し、戦後処理はワイマール共和制のドイツに引き継がれましたが、多額の賠償金や世界恐慌などによる経済破綻と混乱でインフレが進行し、国民生活が破壊された結果、国家社会主義を唱えるアドルフ・ヒトラーのナチス党が支持されるようになり、ドイツ国内の政権を急速に掌握しようとしていました。
1923年には第1次大戦の賠償金の支払いが滞っていたために、フランス軍がドイツのルール地方を占領をした際にナチスはテロ活動を実施し、さらにミュンヘンでワイマール共和国打倒のクーデター(ミュンヘン一揆)を起こしましたが失敗しました。1925年に党の再結成が許可され、翌26年には党内左翼勢力を弱体化させました。
1928年には初めての国政選挙に挑みました。結果は振るわなかったものの、賠償金支払い方法であるヤング案が合意されるとドイツ国民の反感を買い、ナチス党がさらに支持を集める結果となりました。30年の選挙では第2党にまで躍進し、31年には230議席を占めて第1党となり、33年1月についにヒトラー内閣が誕生しました。2月には国会議事堂放火事件が起こり共産党を弾圧、3月には全権委任法を承認、7月には政党禁止法が可決され、ナチ党以外の政党は次々に解散に追い込まれ、ワイマール共和国も消滅しました。11月の最後の国会選挙では議員はすべてナチス党員となりました。34年6月には突撃隊、党内左派等を一斉に粛清(長いナイフの夜事件)し、8月にヒンデンブルグが死去するとヒトラーは総統に就任し独裁体制が確立しました。
1935年になるとヴェルサイユ条約を破棄し再軍備に取り掛かり、破綻していたドイツの国内経済は急激に再建され、失業者も33年には600万人だったのが34年には半減しました。敗戦以来休止していた自動車、航空機産業も再開、発展し世界をリードするようになり、日本の先端技術も大きく影響されるようになりました。
アドルフ・ヒトラー(1889~1945)
Adolf Hitler
ドイツの政治家。ナチス党の党首として民族主義を掲げ、ユダヤ民族などを迫害しました。第2次大戦を引き起こしましたが、1942年頃から攻守が逆転し、敗色濃厚のなか1945年にベルリンの地下壕で自殺しました。
ベルリンオリンピック 1936
Olympische Sommerspiele 1936
1936年8月1日から16日までドイツ、ベルリンのオリンピアシュタディオンで行われました。ナチスはこのオリンピックを国策プロパガンダに用いて国を挙げて大々的に宣伝活動を行いました。また、この大会では初めて聖火リレーやテレビ中継が実施されました。出場国は49の国と植民地におよび、前回のロサンゼルス大会を大きく上回り、第2次大戦前の最後の大会となりました。
オーストリア併合 1938
Der Anschluß Österreichs an das Deutsche Reich
1935年に再軍備を開始したドイツは1936年にスペイン内戦参加、36年にはラインラント進駐、38年にはオーストリア.ナチ党のアルトゥルザイス・インクヴァルトをオーストリア首相に任命しこれを併合しました。この年にはミュンヘン会談によりチェコスロバキアのズデーデン地方を割譲し、翌年にはドイツの威圧に耐えられず、エミール・ハーハ大統領は併合文書に署名し、国家は消滅しました。
ちょうどこの時期に秩父商会の社員が、ドイツ、バイエルン州のBMW本社に招待されることになり、脇本技師を筆頭に、勇も優秀なメカニックとして抜擢されました。
1936年にはベルリンオリンピックを開催すると一時的に反ユダヤ政策を緩和しましたが、その後は民族主義をとなえ、多くの民族を迫害し続けました。同年には非武装地帯であるラインラントに進駐、またスペイン内戦に介入しフランコ政権を支持しました。11月には日独防共協定締結、1938年3月にはオーストリアを併合し、9月にはチェコスロバキアのズデーテンラントを併合。同国の民族運動が激化、混乱すると1939年3月にドイツの支配下となりました。
そして1939年9月にポーランドを侵略したことで、イギリス、フランスがドイツに宣戦布告し、第2次世界大戦が勃発し、1941年9月にはドイツ軍がソビエト連邦に攻め込みました。また12月には、日本とともにアメリカと交戦するようになり、第二次世界大戦の死傷者数は欧州だけでなく、日本のアジア、太平洋の戦争を含めると戦場は地球全体に及び、先の大戦とは比較にならない数となりました。
- フリッツ・トート(1891~1942)。 Fritz Todt 土木技術者であるトートはアウトバーン建設の指揮を執り、1933年から39年まで3000kmに及ぶ道路網を完成させました。1942年2月に独ソ戦に反対していたトートは開戦しないようヒトラーに進言しましたが失敗し、その日の航空機事故で亡くなりました。
- アウトバーン
- Autobahn
ドイツのモータリゼーション
ナチス党が政権を掌握すると世界恐慌やインフレで大量に生じた失業者の雇用対策として、ワイマール共和国時代から計画、建設されていたアウトバーンの建設をさらに加速させ、公共事業に注力しました。世界初の高速道路ネットワークであるアウトバーンの建設総監フリッツ・トートのもとに計画が進められ、ドイツ国内の失業者は大幅に減少しました。
フランクフルトからダルムシュタットまでの最初の区間は1935年に完成し、このストレート区間は、メルセデスベンツ、アウトウニオン、BMWなど様々なドイツ国内メーカーが、最高速度の記録樹立のために使用されました。
また、この高速道路建設事業はプロパガンダに利用され、ナチス党員の青年団が半年間の無償奉仕の勤労活動の一環として工事に参加し、新ドイツ帝国建設という第一次大戦の敗北で傷ついたドイツ国民の高揚に大きく寄与し、これにより、世界屈指の自動車大国ドイツの基盤が誕生することになりました。
第二次大戦が始まると工事は中断され、アウトバーンは軍用機の滑走路として使用されたためにドイツ各地で激しく損壊し、本格的な建設は戦後になりました。
1934年にベルリンモーターショーで発表されたドイツ国民車構想の乗用車であるフォルクスワーゲン(Volkswagen.国民車)を1936年にフィルデナント.ポルシェ博士によってプロトタイプが完成され、38年に発表されました。
最終的には、(KdF-Wagen.歓喜力行団の車)と命名し、ドイツ国民の生活水準の上昇を期待され、ナチス政権下の国民車として協調されました。
1937年にフォルクスワーゲン準備会社(Gesellschaft zur Vorbereitung des Deutschen Volkswagens GmbH )が創立され、翌年にフォルクスワーゲン製造会社(Volkswagenwerk GmbH )と名称変更され、この国民車の大量生産をする拠点都市 「ヴォルフスブルク」(Stadt des KdF-Wagens )までもが新しく建設されました。
これでKdFワーゲンの大量生産する環境が整ったのですが、これも戦争勃発で立ち消えとなり、軍用車のキューベルワーゲン、シュビムワーゲンを生産することになりました。ここも連合軍の激しい攻撃を受けましたが、戦後にイギリス占領下で復興を果たし、フォルクスワーゲンの量産は戦後に再開されました。
- ワーゲンの模型とポルシェ博士とヒトラー。
戦間期のドイツへ
日本からヨーロッパへ渡るには今現在と違って貨客船に乗り、東シナ海からシンガポール、マラッカ海峡を抜けてインド洋から紅海を進み、スエズ運河から地中海に入るヨーロッパ航路(海上ルート)が主流でしたが、勇達、秩父商会の視察団は当時では驚くべきことに、ドイツBMW社が用意したドルニエ社製の航空機を使用し、渡欧することになりました。
BMW社は、バイエルン(バイエリッシュ)・モトーレン・ヴェルケ(Bayerische Motoren Werke) という社名が示す通り、もとはエンジン開発生産会社で航空機用に関しては先端技術を誇っており、そのBMWエンジンが搭載されたドルニエ社の航空機でドイツに向かうことになりました。 この当時は定期航空路など有ろうはずも無く、アジア~ヨーロッパ間を航空機での長距離飛行にようやく手がつけられようとしていたに過ぎませんでした。
日本から勇達を乗せたBMWのチャーター機は、大連を渡り、インド、中近東を経由してヨーロッパ、ドイツ.バイエルン州に到着しました。今現在の南回りのヨーロッパ便のコースになります。
Mitsubishi Ki-15 神風号。1937年に東京~ロンドン間を飛行しました。
- 東風号
- Breguet 19A2kai
欧亜長距離飛行史
当時は日本~ヨーロッパまでの定期航路などなく、長距離飛行にようやく手がつけられたのは、1927年(昭和2年)アメリカ人のリンドバーグの「スピリット・オブ・セントルイス号」が初の大西洋横断成功という快挙に世界中が沸き立ったころからで、まだ年月が浅く始まったばかりでした。日本~ヨーロッパ飛行記録は1920年(大正9年)にイタリア軍の軍人フェラリン中尉、カッバニーニ組、マッシュロ、マレット組が戦闘偵察機アンサルドSVA-9の改良型機で、ローマ~東京間を107日間で飛行したのに始まり、1925年(大正14年)に朝日新聞社の「初風」号、「東風」号が東京~ローマ間を飛行しました。
1937年(昭和12年)5月19日にイギリスで行われるジョージ6世の戴冠式奉祝の名のもとに亜欧連絡飛行を実行し、飯沼正明飛行士、塚越賢爾機関士による「神風」号が東京~ロンドン間を94時間17分で飛行して、2人はフランス政府からレジオンドヌール勲章を受章し、欧亜長距離飛行は頂点に達しました。またルフトハンザ航空が、中国で合弁の欧亜航空公司を開設するなど、ドイツによる東アジア、日本への航空路の開拓に関心が深かったようです。
昭和初期のルフトハンザ航空。アルバトロスL73(BMWエンジン搭載)。
Luft Hansa Albatros L73
BMWの航空機エンジン
BMWは1928年にアメリカのブラット&ホイットニー社から航空機エンジンのライセンスを買い取り、R-1690ホーネットエンジンの発展型として生産していました。そして1933年に改良型である空冷星型エンジンのBMW132が誕生し、民間には、キャブレター式、軍には燃料噴射式のものを採用し、排気量は 27.7Lで出力1200HPまで発揮しました。特に輸送機や、民間航空機用エンジンとして重要な役割を果たしました。
BMW 132 9 cilinder stermotor
BMW801 は第二次大戦期に生産した14シリンダー空冷星型エンジンで、軍の大型航空機(双発機、4発機等)に搭載するものでしたが、単発戦闘機のフォッケウルフFw190にも採用されました。このBMW801エンジンは、排気バルブをナトリウム冷却し、燃料の流量、プロペラピッチ、過給機のセッテイング、混合気の割合、点火タイミング時期などをスロットルレバーの操作ひとつで自動調整され、エンジンの操作負担軽減といった先進的機能を装備していて、工業大国であるドイツならではの高度な技術を投入していました。今現在でも、電子制御で航空機や自動車などが採用されている制御機能と基本は同じものです。
BMW 801 14 cilinder stermotor
Focke-Wulf Fw 190
ドイツの名戦闘機フォッケウルフFw190。BMWエンジン(当時ドイツで最大パワーを誇っていたBMW801.二重星型14気筒・1600HPを搭載)。水冷式エンジンのメッサーシュミットBf109と比べて構造が簡単で量産しやすい機体で、整備性に優れており、20000機あまりが製造されました。
BMW 003
BMW003は第二次大戦末期に開発生産された初期のターボジェットエンジンです。小型で大きな出力を得るようにしようとした為に開発が難航しました。Me262などの搭載予定機のボディはすでに完成しており、BMW003より先に完成していたジェットエンジン、ユンカース ユモ004を已むを得ず搭載されました。BMW003の搭載機はハインケルHe162や、アラドAr234などで活躍の場はほとんどなく、大戦末期の時期に約500基が生産されました。
BMWエンジンはダイムラーベンツ(DB)や、ユンカース(Ju)などのエンジンとともに、ドルニエ(Do)の他にメッサーシュミット(Bf,Me)、フォッケウルフ(Fw,Ta)、ハインケル(He)、ユンカース(Ju)、ヘンシェル(Hs)、アラド(Ar)、ブロームウントフォス(BV,Ha)などのドイツの航空機メーカーにも導入、採用され、ルフトヴァッフェ(Luftwaffe)を支えました。
Heinkel He 162 Volksjäger
BMW003を搭載したハインケルHe162。活躍の場はほとんどありませんでした。
Nakajima J9Y Kikka
BMWやユンカースのジェットエンジンを搭載した、メッサーシュミットMe262を参考にして生産された国内初のジェット機。「橘花」1945年。ネ20エンジンを搭載。
Ne 20
ネ20は海軍航空技術廠が中心となって日本で初めて実用段階に達したターボジェットエンジン。BMW003を参考に開発され、24基ほど生産されました。
- グスタフ・オットー(1883~1928)。 Gustav Otto ドイツ、バイエルン州の機体メーカーであるオットー社の創業者。ラップ社と手を組んで、ビジネスに成功しました。ちなみにグスタフの父であるニコラウス.アウグスト.オットーはガソリンエンジンのオットーサイクルを確立した偉大な技術者です。
RMW. BFW. BMW.
BMWの前身は、航空機や船のエンジン製造会社であるRMW(ラップエンジン製造会社.Rapp Motoren Werke )です。
1916年に、ラップエンジン工業とグスタフ・オットー航空機工業の2社が合併し、航空機エンジンメーカーであるBFW(バイエルン航空機工業.Bayerische Flugzeug Werke )を創業し、機体からエンジンまで自社生産していました。翌1917年にミュンヘン市から郊外へ移転独立し、BMWが誕生しました。
第一次大戦では、航空機のエンジンの開発生産を行っていましたが、帝政ドイツが敗北すると航空機の製造が禁止され、代わりに技術力を生かしてオートバイの製造に主眼をおくようになりました。 そこでBMW社のオートバイ生産は1923年に空冷4サイクル水平対向2気筒で排気量494ccのR32(Rシリーズ)の製造をバイエルン州の工場で開始しました。
- Max Friz マックス・フリッツ(1883~1966)。
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- BMW Dixi
また、この後のBFW(バイエルン航空機工業.Bayerische Flugzeug Werke )は航空エンジニアであるウィリー・メッサーシュミットにより、バンベルクでメッサーシュミット航空機製造工場(Flugz-eugbau Messerschmitt) を設立、同じバイエルンにあったBFWに吸収合併されることとなりました。
これはバイエルン州政府が助成金を1つの会社に絞るためのもので、優秀なメッサーシュミットの設計スタッフがBFWに完全移籍しました。
1938年に株式会社メッサーシュミット (Messerschmitt AG) として改め、数々の航空機を開発製造しました。
BMWは1920年後半には4輪自動車の生産販売を目標にし、開発コストや期間がかかる自社による開発ではなく、既存でのライセンス生産をすることにしました。そのため1928年にゴータ鉄道車両製作所(Der Gothaer Waggonfabrik)からアイゼナハ車輌製作所(Die Fahrzeugfabrik Eisenach A.G.)を買収して生産環境を整え、翌年にイギリスのオースチン社のオースチンセブン(BMW Dixi)をライセンス生産しました。
1932年にライセンス契約が終了すると、その年に早くもBMW自社開発の3/20AM-1を発表し、62,864台がアイゼナハ工場で生産されました。
航空機エンジンの設計者であるマックス.フリッツは、BMW最初のオートバイ、「R32」の開発リーダーに抜擢され、現在まで採用されている水平対向2気筒エンジン、シャフトドライブ方式を生み出しました。
BMW R32
1923年にマックス・フリッツのもと、BMWが初めて製造したオートバイ.R32型。基本である空冷水平対向2気筒とシャフトドライブの採用はここから始まりました。
BMW R37
BMW初のOHVレーシングモデル.R37型。レースで好成績を残しましたがRシリーズの中では最も生産台数が少ないモデルで174台で終了となりました。
BMW R75
第二次大戦期で使用されたサイドカーBMW.R75。東部戦線の寒冷地から、北アフリカの砂漠地帯まで、ドイツ陸軍を支えました。悪路にも耐えれるよう側車のホイールも駆動する2WD方式を採用しました。
Rudolf Schleicher
1925年、オートバイR37で、ISDT(International Six Days Trial)で他のメーカーを抑え、優勝したルドルフ.シュライヒャー。このレースの優勝により、オートバイの新参メーカーであるBMWが世界に認められることになりました。
Ernst Henne
スピード記録に挑戦するエルンスト・ヘンネ(1905-2005)と「フライングエッグ」、1937年にフランクフルトからミュンヘン間のアウトバーンで、世界記録である279.83km/hをマークし、1951年まで破られることはありませんでした。
アイゼナハ工場は第二次大戦期には兵器工場に生まれ変わり、軍用車輌や航空機エンジンを生産していました。そのため連合軍の攻撃目標になり、空襲で施設は甚大な損害を被り、施設の60%が破壊されました。
またドイツ東部のチューリンゲン州にあった為に戦後ソビエト連邦の占領統治下になりましたが、1952年に当時のドイツ民主共和国(東ドイツ)に工場を譲渡し、東ドイツの国営企業VEBアウトモビルヴェルク・アイゼナハ社AWE(VEB Automobilwerk Eisenach: AWE)がここで東欧向けの自動車、ヴァルトブルク(Wartburg)を生産しました。
東西ドイツ統一後の現在はオペル社が工場を使用しています。BMWの4輪車はアイゼナハ工場(BMW-Werk Eisenach)から始まりました。
- ヨーゼフ・ゲッベルス(1897~1945)
クヴァントとBMW
1959年にBMWは経営不振に陥りました。当時はドイツでも小企業自動車メーカーに過ぎませんでしたが、労働組合活動などにより、実業家であるヘルベルトクヴァントが増資を行い、ダイムラーベンツとの吸収合併は実行寸前にとりやめとなりました。危険な投資でしたが1962年に販売されたBMW1500が成功し、息を吹き返すことができました。現在も妻とその子供達はBMWの大株主です。
ヘルベルトの父親であるギュンタークヴァントは一代で巨万の富を築いた実業家で、ナチスドイツの宣伝大臣ヨーゼフゲッベルスと血縁を結びました。ギュンターはそれを利用し各地の強制収容所から労働力を確保し、劣悪の環境のなかで自身のドイツ国内の工場で強制的に労働従事させたことにより、大勢の労働者が命を落としました。
それら膨大な犠牲者によって築くことができた「富」が、後に倒産寸前にまで追い詰められたBMWの経営不振から脱却させ、再建することになりました。
2007年にナチスドイツとクヴァント家の関係を取り上げたドキュメンタリー番組である「クヴァント家の沈黙」が放送され、第2次大戦中にどのようにしてクヴァントが「富」を築いたのか、また戦後、どのように責任逃れてをしてきたのかを大勢のドイツ国民が知ることになり、衝撃を受けることになりました。
- 福岡市で独立直後の藤壷勇。
- 東西ドイツの統一
BMW訪問と独立
日本を飛び立ったドルニエ社の航空機は中国大連に渡り、インド、中近東経由でドイツ、バイエルン州に到着し、BMWの本社工場を見学しました。勇にとって、これはなにがしかの感慨を持つに十分な出来事で、先進的な技術と精密工業に近い独自の技術が集まり、それらをまのあたりにするというたいへん貴重な経験をし、この60年後にドイツ工場を建てるきっかけになりました。
そして25歳の時に秩父商会を退職し福岡市博多区で独立し、大きな転機になりました。それまでは年齢が若いこともあり、他人に使われる身で仕方がないことでしたが、この独立で小さいながらもようやくこれでオートバイやエンジンの研究を好きなだけ打ち込めることが出来るようになりました。
60年後、再びドイツへ
戦前のドイツに訪問した勇は、昭和61年に藤壷技研の工場を同国のオイスキルヘン市に建設することを決断しました。若い頃に訪れて大きな感激を与えたドイツの地を60年ぶりに再訪問し、目で見て感じたことやヨーロッパでも触媒装置マフラーの必要性が高まっている事を認識し、オイスキルヘン市長をはじめ、関係者を日本に招待し、自分たちの会社や工場を十分に知ってもらおうという所からこのプロジェクトは始まりました。
勇は自社の触媒やマフラーをいち早くドイツに送り込み、TUVやKBAの審査を受けて合格させる事に成功しました。すでに日本製の自動車の対米、対欧輸出が各国の抵抗を受けるような時代になっていて、製品が優れていれば競争に打ち勝ってあらゆる国に輸出することができるという戦後の日本の産業を支えてきた論理は、昭和50年以降修正せざるをえない状況になっており、勇もまた企業家としての立場から、輸出よりも現地生産のほうがこれからの時代に相応しいと考えました。
このような勇の決心によって、それらの生産許可を当時の西ドイツ政府から受け、首都のボン郊外に工場建設地を決定し、そのオイスキルヘン市も誘致に尽力されました。
昭和63年10月に藤壷技研ドイツ法人のフジツボ.ゲーエムベーハー(GmbH)工場は着工され、平成元年6月に落成、稼動しました。 東西ドイツ統一の約一年前のことでした。
クレーマーポルシェ社のクレーマー社長と勇会長
西ドイツ.オイスキルヘン市長トンペス氏と勇会長
Bayern München
バイエルン州はドイツ連邦共和国の南部に位置し、面積は最大でスイス、オーストリアに隣接。州都はミュンヘン市で人口約129万人。ベルリン、ハンブルグに次ぐドイツ国内第3の都市。ビール酒造業とBMWやアウディなど自動車、エアバスなど航空機産業が有名。またドイツを代表するオーケストラ、バイエルン放送楽団、ミュンヘンフィルハーモニー、サッカーブンデスリーガのバイエルンミュンヘンはここを拠点に活動しています。街中に市庁舎や11世紀に建てられた聖ペーター教会、15世紀後期ゴシック様式のフラウエン教会、バロック様式のテアティーナ教会、ロココ様式のアサム教会。14~18世紀の欧州絵画が展示されているアルテピナコテーク、19世紀の絵画、彫刻が展示されているノイエピナコテーク、20世紀の現代造形美術が展示されているモダンピナコテーク、カンディンスキーなど青騎士派の作品を収蔵しているレンバッハハウス美術館、またドイツの科学技術の発展を紹介したドイツ博物館等が有名です。
- Schloss Neuschwanstein
城、宮殿ではヴィステルバッハ家のかつての居城ニンフェンブルク城、バロック様式のシュライスハイム城。ミュンヘン郊外には、バイエルン国王ルートヴィヒ2世が建てたノイシュバンシュタイン城、ホーエンシュバンガウ城などの古城群などが有名です。
ミュンヘン市は建都850年を迎えました。
ロマンチック街道
バイエルン州を縦断している観光ルート。総延長366kmでヴュルツブルクからフュッセンまで伸びていて、途中にローテンブルク、ディンケルスビュール、ネルトリンゲン、ドナウベルト、アウグスブルク、シュバンガウなど、中世の美しい街並みが今も現存しています。郊外の古城、風景などドイツを代表する人気の高い観光街道です。
- BMW-MUSEUM
PETUELTING 130, 80788 MUNICH,GERMANY
TEL:(89)38223307
FAX:(89)23325033
BMW-MUSEUM
■住所: Petuelring 130
■交通アクセス: [U]3 Olympiazentrum下車
■料金:€2
BMW博物館は、ミュンヘンオリンピック公園の側にあり、円柱型のビルはエンジンのシリンダーを表現しています。博物館は茶碗型の建物で、本社の敷地内にあります。 2008年6月にリニューアルされました。
ここにはディキシーからイセッタなどかつて販売した自動車、エンジン、タービン、航空機、R32からのオートバイや、コンセプトカー、F1などのレースカーなどBMWがたどった様々な製品が魅力的に展示されています。
ALTE PINAKOTHEK
■交通アクセス: [U]2のTheresienstr.下車徒歩約7分。またはKarlsplatzからPetuelring行きの27番の市電でPinakothek下車徒歩2分
■定休日: 月、カーニバルの火曜、5/1、12/24、12/25、12/31、他一部の祝日
■料金: €5.50、学生€4、日曜は€1
アルテ.ピナ.コテークは、国立美術館でバイエルン王ヴィステルバッハ家のルートヴィヒ1世が国民に、収蔵していた芸術作品の開放を目的に1836年に創立されました。中世からバロックの作品が主で、デューラー、クラーナハ、ホルバインなどのドイツの絵画、ルーベンス、ブリューゲルなどのフランドルや、ネーデルラント、また、イタリア、スペイン、フランスなどの作品も展示されています。建物は第二次大戦で甚大な被害を被りましたが1957年に再開しました。
- NEUE PINAKOTHEK
BARERSTRASSE 29, 80799 MUNICH,GERMANY
TEL:(089)23805195
FAX:(089)23805312
NEUE PINAKOTHEK
■交通アクセス: [U]2のTheresienstr.下車徒歩約7分。またはKarlsplatzからPetuelring 行きの27番の市電でPinakothek下車徒歩約2分
■定休日: 火、5/1、12/24、12/25、12/31、他一部の祝日
■料金: €5.50、学生€4、日曜は€1
ノイエピナコテークはルートヴィヒ1世によって1853年に開設されました。18世紀~20世紀の作品が5000点ほど収蔵しており、ドイツロマン派、ナザレ派、またセザンヌ、モネ、ルノワール、ゴーギャン、ゴッホ、クリムトなどの印象派の作品が有名です。
第2次大戦の連合軍機の空襲で甚大な被害を被りました。戦後、自然光を取り入れたモダンな美術館を再建しました。
- Pinakothek der Moderne
BARERSTRASSE 40, 80333 MUENICH, GERMANY
TEL:(089)23805360
Pinakothek der Moderne
■交通アクセス: KarlsplatzからPetuelring行きの27番の市電でPinakothek下車徒歩約3分。
■定休日: 月、カーニバルの火曜、5/1、12/24、12/25、12/31、他一部の祝日
■料金: €9.50、学生€6、日曜は€1
モダンピナコテーク(ピナコテーク.デア.モデルネ)は、20世紀からの芸術作品が展示されており、2002年に開設されました。シュテファン・ブラウンフェルスの設計で、円形ホールを中心に展示室がひろがっていて、ウォーホール、ピカソ、ボイス、マティス、マグリット、クレーなどの絵画が展示されています。
またドイツ国内の著名画家であるキルヒナー、ノルデなどの表現主義の作品なども所蔵していて、その他には現代美術、グラフィックアート、建築、デザインなど幅広く、特別展やイベントなど盛んに開催されています。
- DEUTSCHES MUSEUM
MUSEUMSINSEL 1, 80538, MUNICH, GERMANY
TEL:(089)21791
FAX:(089)2179324
DEUTSCHES MUSEUM
■交通アクセス: [S]IsartorまたはRosenheimer Platz下車、または18番の市電でDeutschesmuseum下車
■定休日: 祝(1/1、カーニバルの火曜、聖金曜日、5/1、11/1、12/24、12/25、12/31)
■料金: €8.50、学生€7。 別館であるシュライスハイム航空博物館と交通センターの共通入場券は€15。
ドイツ博物館は、世界で最も有名な科学技術博物館です。20世紀初めにオスカー・フォン・ミラー(1855~1934)の指導のもとに創設されました。床面積が4万5000m2に 1万7000点の展示品、各展示フロアの通路をすべて歩くとなんと17kmに及びます。ドイツで最初のUボート(潜水艦)、19世紀の商船、歴史的な蒸気機関車、リリエンタールやライト兄弟の飛行機からユンカースやメッサーシュミットの戦闘機、ロケットなどが展示されています。
- Vassily Kandinsky
Städtische Galerie im Lenbachhaus
■住所: Luisenstr. 33M
■交通アクセス: [U]2のKönigsplatz下車
■定休日: 月、カーニバルの火曜、12/24、12/31
■料金: €6、学生€3 ※特別展開催時はその分が加算される
レンバッハハウスギャラリーには、カンディンスキーと芸術グループ「青騎士」のメンバーであるマルク、マッケ、クレー、ミュンター、ヤウレンスキーたちの代表作が展示されています。19世紀のドイツ,ミュンヘンの侯爵画家フランツ・フォン・レ-ンバッハの邸宅が、19~20世紀絵画を展示する美術館になっています。侯爵が好んだイタリアルネサンス様式で1889年にガブリエル.フォンザイドルが設計しました。今現在はミュンヘン市の市立美術館になっています。1957年、ガブリエーレ.ミュンターにより、カンディンスキーなど青騎士の作品が200点ほど寄贈されました。
- NEUES RATHAUS
NEUES RATHAUS
■交通アクセス: [U][S]Marienplatz下車
■定休日: 新市庁舎の塔
日・祝、11~4月の土、12/24~1/1
■料金: €2、6~18歳€1
1867~1909 年に建てられたネオゴシック様式の新市庁舎で、正面には多数の歴史上の人物の彫刻があり、塔の頂上部にはミュンヘンの僧があります。ここの塔の仕掛け時計グロッケンシュピールGlockenspielは、1568年に行われたバイエルン大公ヴィルヘルム5世とロートリンゲン(ロレーヌ)公女レナーテとの結婚式を再現したものです。仕掛け時計の人形は一つ一つが可動し、24種類の音楽が流れます。また1923年に市庁舎に隣接するマリエン広場でもミュンヘン一揆の舞台となり、多数の死傷者がでました。首謀者であるヒトラーは逮捕、投獄されましたが1年ほどで釈放されました。
- Frauenkirche
Frauenkirche
■住所: Frauenplatz 1
■交通アクセス: [U][S]Marienplatz下車
■定休日: 日・祝、11~3月
■料金: €3、学生€1.50
フラウエン教会は1468~1488年に後期ゴシック様式(ハレンキルヒェというドイツ特有の後期ゴシック様式)で建てられました。内部の身廊の長さ 109m、幅41.05m、天井までの高さは31mあります。玉ねぎ型の屋根はミュンヘン市のシンボルで、そこからミュンヘンの街並みとヨーロッパアルプスの素晴らしい風景が堪能できます。
- Residenz
Residenz
■住所: Max-Josef-Platz 3
■交通アクセス: [S]Marienplatzまたは[U]3~6 Odeonsplatz下車徒歩7分。または市電19番Nationaltheater下車すぐ
■定休日: 1/1、カーニバルの火曜、12/24・25・31
■料金: レジデンツ博物館:€6、学生€5 レジデンツ宝物館:€6、学生€5 両館コンビチケット:€9、学生€8
バイエルン最後の王ルートヴィヒ3世が退位し、王政が崩壊した1918年からわずか2年後に博物館として一般公開され、第2次世界大戦で建物の被害はあったものの、美術品や財宝の数々は保護されていたため無事でした。
レジデンツ宝物館 Schatzkammerには、10世紀からの王家の宝物が展示されています。
Schloß Nymphenburg
■交通アクセス: 中央駅から市電17番のAmalienburgstr.行きでSchloß Nymphenburg下車徒歩約5分
■TEL: (089)179080
■定休日: 【ニンフェンブルク城】
1/1、カーニバルの火曜、12/24・25・31
■料金: 【ニンフェンブルク城】城本棟のみ:€5、学生€4。
ニンフェンブルグ城は1664年、フェルディナント・マリア侯が妃アーデルハイトのために造営した別荘が始まりで、その後19世紀半ばまでの増改築により、現在の姿となりました。ルートヴィヒ1世が愛した美女36人の肖像画が美人画ギャラリーSchönheitengalerieの壁面を飾っていて、ルートヴィヒ2世誕生の部屋も見学できます。































