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大阪修業時代
元号は大正から昭和に変わり、震災恐慌がまだ一段落もつかないうちに金融恐慌が巻き起こり、さらに世界恐慌が起ころうとしていたときに、藤壺勇は博多駅から夜行列車で大阪に向かいました。
大阪での訪ね先はトラックの運転助手を募集していた会社でしたが、別に誰かが紹介したわけでもなく飛び込みで社員にしてもらおうという考えでした。
10時間以上汽車に揺られ翌日の朝に大阪駅に到着し、駅前で車夫に誘われるままに人力車に乗り込みました。 しかし地理の不案内な市内を適当に走られ、夕凪橋あたりで放り出され15円の所持金を巻き上げられました。右も左もわからない大阪の街中で無一文の勇は途方に暮れ、どうしようかと考えていたときふと目にした新聞にうどん屋の出前持ちの募集広告があり、「生駒」という屋号のその店に雇ってもらうことになりました。
生駒で働いて3ヶ月が経過したある日、新聞にオートバイ販売店の大塚モータースの募集広告があり、そこの住み込み社員になりました。
大塚モータースは間口が30間(約36.4m)の店構えで70台程の輸入オートバイが並んでいて、ハーレーやインディなどの新車は500~600円もしました。他の店員が販売員だったのに対し、勇は機械類に関しての知識と技術を持っていましたのですぐに一目置かれる存在になりました。当時はパーツリストが全て英文でしたので店が暇な時や、休日のときは関西大学に英語を習っていました。
しかし大塚モータースは販売業であり、オートバイそのものにのめり込みたい勇にとって物足りなくなってきました。ちょうどそのときにオートバイの曲乗り興行社から750ccインディアンの修理を依頼されると勇は手際よくこなし、サイカホールのオートバイのドライバーとして誘われました。サイカホールとは、円筒形の樽を地面上に建て、その内側をオートバイで走るというもので、現在のサーカスなどで見られる曲乗りと同じものです。
1920年代の大阪駅
現在とは違って駅前には多数の人力車が停車しています。
Osaka station (1920)
愛車のインディアンと藤壺勇
Indians
大塚モータースに勤めていた頃の藤壷勇
Isamu Fujitsubo worked at a Ootsuka motors.
- 藤壷勇と同様、サイカホールドライバー三島選手の演技
- Mr Misima's performance.
サイカホール
勇は大塚モータースを退職し、サイカホール団の一行に加わって四国の観音寺に渡り、ここで曲乗りの練習を積み重ねましたが、もともとオートバイに乗ることができ、遠心力を利用して樽の内側を縦横無尽に走る技を習得するのに大して時間はかかりませんでした。勇は団の一員となり、広島から横浜まで流浪の生活が始まりました。見知らぬ土地を次々に訪れ、珍しい風物を見ることはとても面白かったようです。
また、一団のスター選手でしたので19歳の勇は悪い気はしませんでした。サイカホールの興行はどこへ行っても好評で、自ら整備したインディアンに跨り、遠心力によって宙返りするように走っていたので観客にとってはまさに神業と思われていました。あっけにとられ、驚嘆の声か巻起こり、物理法則を知らない人々にとっては我が目を疑うべき現象でした。四国の善通寺では陸軍の第11師団の将校が何人かの兵隊を連れて、勇が走り終えると「樽の内側には滑り止めの松脂が塗ってあるのではないか。」と疑わしそうな面持ちで訪ねたようです。確かに内側には黒く塗れて光っていましたが、それはオートバイのエンジンオイルが走行中に飛び散っていたものでした。将校は不思議な思いで帰っていたそうです。
しかし旅から旅の巡業だけに興行収入は安定せず、勇はついに一団とたもとを分かち、再び、1人で大阪に向かいました。
岡本印刷
大阪に戻った勇は岡本印刷という印刷会社に勤めることになりました。ここでは映画のポスターを印刷しており、それをサイドカー付オートバイで映画館に配達をしていましたので早速配達係になり、大阪の街路を飛ばしていました。この当時の映画館は大衆娯楽の殿堂で、時代の動きを真っ先に伝える重要な流行の発信地でした。ある時は大阪に来ていた市川歌右衛門をサイドカーに乗せて、劇場まで送迎することもありました。











