FUJITSUBO SINCE 1931

藤壺自動車工業 福岡県粕屋郡篠栗町乙犬996-5 TEL:092-947-4411 

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HISTORY 藤壺のあゆみ

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藤壺102年のあゆみ

藤壺102年のあゆみ

昭和12年、福岡市博多区石城町の藤壺モータース工場前で藤壺勝の出征式。日中戦争から太平洋戦争まで8年間に及ぶ軍隊生活でした。当時、軍用車の整備ができる職人が少なかったので、これだけの長期間になりました。満州や日本本土に配属され、昭和20年には当時、東洋一の規模を誇った福岡県の旧陸軍太刀洗飛行場にある車輌等の整備や防空任務に就きましたが、同年3月、米軍機B29の大空襲で飛行場と太刀洗航空廠は壊滅しました。

 

 

藤壺102年のあゆみ

昭和20年頃で、復員直後の藤壷勝。戦後は福岡市博多区の石城町から旧御笠町に工場を移転しました。背後は御笠川の護岸。

Masaru Fujitsubo and Datsun Roadster (Fukuoka Japan 1945).

藤壺102年のあゆみ

昭和15年頃、ダットサントラック運転席に弟の藤壺勝、旧陸軍時代。

Masaru Fujitsubo and Datsun Truck (Japanese Army 1940).

藤壺102年のあゆみ

西南戦争(1877)
西南戦争(1877)

1880(明治13)年~1908(明治41)年

 

   藤壺勇、勝兄弟の父親である藤壺満喜は、明治13年に熊本県鹿本郡に生まれました。このころから鍛冶屋を開いていたようで、人力車や客馬車を製造してました。  

 満喜は、新しいものが好きで、家に電気をひく時に、周りが体に悪いものと警戒していましたが、満喜は迷うことなくすぐに取り入れました。

日露戦争(1904~1905)
日露戦争(1904~1905)

1908(明治41)年~1930(昭和5)年

 

 当社の前身である藤壺鉄工所は蒸気機関車の煙突や人力車や客馬車を製作販売をしており、いわゆる明治時代からの鉄工所(鍛冶屋)でした。

 機械工具が工場にはごろごろしていて、こういった環境のなかで藤壺勇(明治43年、1908年生まれ)、勝(大正2年、1913年生まれ)兄弟は生まれ育ちました。兄弟は小学生になると機械や発動機を組んだりばらしたりと仕事の手伝いをするようになりました。


 大正5年頃(1916年)から藤壺鉄工所ではガス、ガソリン、蒸気といった様々な発動機の整備やオーバーホールなどをしていました。

満州事変とリットン調査団
満州事変とリットン調査団

1931(昭和6)年~1936(昭和11)年

 

  当社は昭和6年(1931年)2月10日に藤壷勇、勝兄弟により福岡市博多区石城町に満州事変が勃発する半年前に開業しました。
 当時は福岡市内でもオートバイが6台程しかない時代で、2輪、3輪を本格的に修理できるところは、4件ほどしかありませんでした。
昭和8年に藤壷モ-タースを設立し、バイクレースに積極参加し各地で優勝するようになり、それはまた自身で操り、速くて走りやすい車を模索していました。昭和9年に2輪車のスポーツモデル「イーグル号」を兄弟で試作しました。

 またこの頃から純国産のダイハツ、マツダなどの3輪車が登場し、エンジンはオートバイと変わらない単気筒で最高出力は10~15馬力。当時家1軒に匹敵する1400円ととても高価なものでしたが、本格的な自動車やトラックに比べればはるかに安かったので、小規模な会社や商店には好評を博し、
福岡では代理店の藤壷モータースを通して、徐々に普及しはじめるようになりました。この当時、4輪車はGMやフォードなどの日本でのノックダウン生産車が圧倒的なシェアを占めていました。

福岡、博多の出来事 1931、9月、チャールズ・リンドバーグが名島水上飛行場に来福。
1933、熊本市の人口を抜き九州最大の都市になる。
1934、天神交差点に九州初の自動信号機を設置。
1935、博多祇園山笠の掻き山が、初めて福岡部に入る。
1936、国内初の国際空港、雁ノ巣飛行場開港(現在の福岡市東区雁ノ巣)。
真珠湾攻撃(1941)
真珠湾攻撃(1941)

1937(昭和12)年~1945(昭和20)年

 

   しかし昭和12年(1937年)、日中戦争勃発により、弟勝が昭和20年の終戦までに3度の召集を受けたために、殆ど兄勇の単独事業となりました。

 この間日本国内では次第に物資や燃料の欠乏が深刻化し、昭和12~13年をピークに、3輪車供給も減少の一途をたどるようになりました。それでもオートバイレースは、「機械化国防訓練全日本自動車競走大会」という名称で、昭和16年頃まで開催されており、兄勇は精力的に参加し、オートバイの性能を追求し独特のチューニング技術を駆使して、全国大会で連戦連勝を重ねました。

 またこの頃から軍の仕事が入ってくるようになり、上陸用舟艇の大発のエンジンの電装などを請け負っていて、大戦中の仕事も多忙を極めました。しかし戦局は次第に悪化し、太平洋戦争末期の昭和20年6月19日の福岡大空襲で、呉服町から長浜町まで市の中心街のほとんどが灰塵に帰し、藤壺モータースの工場も例外ではありませんでしたが、大切な工具や機械は地中に埋めていてその殆どが無事でした。

福岡、博多の出来事

1937、5月、ヘレン・ケラー来福。西南学院、福岡女学院、福岡聾学校を訪問。 

1940、西部軍司令部が小倉から福岡に移転。

1944、福岡動物園の廃止。

1945、5月、旧陸軍蓆田飛行場(現、福岡国際空港)開港。 

1945、6月、239機のB‐29による福岡大空襲。1000人以上が死亡・行方不明。

1945、8月、筑紫駅空襲事件。P‐51による民間人への機銃掃射。死者64人。

1945、8月、終戦。

GHQ最高司令官、マッカーサー元帥
GHQ最高司令官、マッカーサー元帥

1945(昭和20)年~1949(昭和24)年

 

   昭和20年(1945年)終戦とともに、兄勇は戦災にあった工場を再建し、弟勝は足掛け8年におよぶ軍隊生活から開放され無事に復員しました。福岡県久留米市の旧日本陸軍第12師団の自動車隊(第20903部隊.會川隊)の軍用車輌の整備で、民間とは違った経験と知識を身につけていましたので、オートバイや自動車の整備はおてのものでした。

 また同時にオートレース再開の機運が自然に盛り上がり、その動きの中心となったのが、戦前からレースに参加していた各地方の常連メンバーでした。 終戦の年に早くもアマチュアオートレースを主催し、以後積極的にモータースポーツの復興に活躍しました。

終戦直後の藤壷モータースの仕事は、オートバイやオート3輪、トラックや乗用車の修理でしたが、新車はもちろん、部品も手に入らない時代でしたので、修理は大いに繁盛しました。また、故障した進駐軍(GHQ)のオートバイの修理をしたことがきっかけで次々とアメリカ軍のバイク修理の仕事が入りました。

福岡、博多の出来事

1945、 9月、アメリカ軍が進駐、各地に米軍キャンプが設営される。

1946、10月、福岡の天神地区に新天町誕生、営業開始。 

1948、平和台陸上競技場が完成。10月、第3回国民体育大会開催。

イーグル号
イーグル号

1949(昭和24)年~1951(昭和26)年

 

   終戦後、自転車に補助エンジンを取り付けるような簡易型オートバイが流行しました。 ところで戦前からの国産メーカーはキャプトン、アサヒ、メグロ、陸王などで、いずれにしても大規模なものではありませんでした。それらが戦争の荒波を受け、戦後の混乱期にいっせいに平和な時代に向けてスタートを切ろうとしていましたので、その結果、昭和20年代には全国で各地に新旧100社以上が乱立することになりました。

 戦争が終わるとすぐに自動車やオートバイの販売修理業を再開し商売が軌道に乗ると、兄勇は長年戦前から抱き続けてきた夢である、自分の手で本格的なオートバイを作るという思いを実行に移しました。バイク製造に絶好の機会が到来したかのように思われましたが、その一方で時流に便乗するという浮ついた気持ちなど全く無く、勇はオートバイについてはあらゆる面でスペシャリストで、とうてい軽い気持ちで製造する気にはなれず、外国製と肩を並べるものを作ることしか考えていませんでした。

 昭和24年にエンジンから機構にいたるまで、独特のアイデアを盛り込んだ「イーグル号」が誕生し、10,000rpmの150cc、2ストロークエンジン、フットチェンジのミッションは日本国内初のもので、レーサーの経験から生まれたエンジン出力と、抜群の操縦性能は評判がとても良いものでした。しかし昭和25年になるとガソリン統制にかかり、やっと勃興したオートバイは再び衰退することになり、400台あまり製造販売したイーグル号も例外ではなく製造を断念することとなりました。

福岡、博多の出来事

1949、辛子明太子誕生。 

1950、平和台球場完成(~1997)。 

1951、西鉄クリッパーズと西日本パイレーツが合併。西鉄ライオンズ誕生。

1951、板付飛行場(現、福岡国際空港)で、民間航空が再開される。

新幹線の開業
新幹線の開業

1951(昭和26)年~現在 

   昭和26年に兄勇は将来を見据えて、神奈川県横浜市に居を移しプロのレーサーとして連戦連勝を飾りながら、チューナーとして活路を開きました。昭和30年に藤壷技研工業を設立し、競技車輌の製作、各メーカーの市販車のチューニング、エキゾーストパイプ、マニフォールド、マフラーなど日本の代表的な企業基盤を築きました。

 私ども福岡の藤壷自動車工業は弟勝が工場を引き継ぐこととなり、豊富な知識と経験により板金整備販売事業を福岡で行っていて、今現在に至ります。根っからの整備技術職人で、色々な自動車各業界から表彰されることになりました。 物資が不足していたころから2輪、3輪、4輪車や発動機が好きで最後までメカを大切にし、部品交換などに頼らず幼少期の頃や戦争中の苦悩の整備兵時代から試行錯誤を繰り返し、経験を重ねながら修理してきた藤壺勝のあゆみこそが、今の時代でよくいわれる本当のエコではないでしょうか。

福岡、博多の出来事

1953 、8月、福岡市動物園開園。 

1954、 2月、マリリン・モンローとジョー・ディマジオが、新婚旅行で来福。

1963、12月、博多駅が現在地に移転。

1972、 4月、福岡市が政令指定都市となる。

1975、 3月、山陽新幹線開業。博多まで営業開始。

1976、天神地下街が開業。

1978、ライオンズが所沢へ(西武)。

1979 、2月、西鉄の福岡市路面電車が全線廃止。

1980、10月、福岡都市高速道部分開通。

1981、 7月、福岡市営地下鉄開業(天神~室見.当時)。

1988、南海がダイエーの球団買収により福岡ダイエーホークス誕生

1989、アジア太平洋博覧会が開催。福岡タワー建設。

1993、 3月、福岡ドーム竣工。

1996、アビスパ福岡誕生。

2000、 7月、九州沖縄サミット財務省蔵相会合開催。

2004、ダイエーがソフトバンクの球団買収により福岡ソフトバンクホークスが誕生。

2005、 3月、福岡市西方沖地震(M6)。

2011、 3月、九州新幹線が博多まで乗り入れ。全線営業開始。

昭和30年頃、藤壺勝社長。福岡市博多区旧御笠町。

昭和30年頃、藤壺勝社長。福岡市博多区旧御笠町。

Masaru Fujitsubo and maintenance shop (Fukuoka City 1955).

歴史

歴史

歴史

昭和30年頃の工場風景。福岡市博多区旧博多駅そば(旧御笠町)。手前は御笠川の護岸。
Fujitsubo maintenance shop (Fukuoka City 1955).

歴史

昭和30年頃の工場前で。
Masaru Fujitsubo and maintenance shop (Fukuoka City 1955).

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昭和30年頃福岡市博多区御供所小学校(御供所町)グランドで。
Iwao Fujitsubo and Rikuo (Fukuoka City 1955).

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昭和30年頃、工場前でモーリスマイナーと。
Morris and maintenance shop (Fukuoka City 1955).

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昭和28年、福岡市博多区(旧御笠町)の工場にて。
Mechanic and maintenance shop (Fukuoka City 1953).

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昭和28年頃、福岡市博多区(旧御笠町)の工場の前で。
Iwao Fujitsubo and maintenance shop (Fukuoka City 1953).

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昭和28年頃、工場の前で。
Masaru Fujitsubo and Iwao Fujitsubo (Fujitsubo Maintenance shop Fukuoka 1953).

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 昭和30年頃、工場前の風景。今現在と違い、マンションやビルなど全くありません。
Fujitsubo maintenance shop (Fukuoka City 1955).

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昭和35年頃、福岡市博多区吉塚の工場風景。
Fujitsubo maintenance shop (Fukuoka City 1960).

九州運輸局長表彰店

有限会社 藤壺自動車工業

福岡県粕屋郡篠栗町乙犬996-5 TEL:092-947-4411